『もうひとつのワンダー』ができたわけ
『ワンダー』を出版して以来ずっと、「続編は出るのですか?」と読者から何度も質問されました。
わたしは申し訳ないと思いながら、こう答えていました。「いえ、続編は出さない方がいいと思っています。このあとオギーたちがどうなっていくのかは、読者の方がたご自身に想像していただきたいのです」
でも、そう答えておきながら、わたしは今『ワンダー』のスピンオフ作品の前書きを書いているのです。いったいどうしてこうなったのでしょう?
その問いに答えるには、少し前作『ワンダー』についてお話ししなければなりません。『ワンダー』は、オーガスト(オギー)・プルマンという十歳の男の子の物語です。生まれつき顔に異常があり、ビーチャー学園中等部の新入生として、山あり谷ありの毎日をすごします。その大変な一年間の道のりを、オギーや、オギーとかかわる人物たちの視点から書いたのが前作です。前作では、語り手に、その人の目から見ると、オギーがありのままの自分を受け入れていく過程をより理解しやすい人物を選びました。だって『ワンダー』は、最初から最後まで、オギーの物語なのですから。
けれど、語らなかった人物たちにも、おもしろい話がいくつもあるのです。その子の〝行い〟の背景を教えてくれる物語です。まさに、そこからこの本は誕生しました。
本書『もうひとつのワンダー』は、その後のオギーについて書いてある物語ではありません。この本の中では、オギーはただの脇役にすぎません。六年生で、あるいはまたその先で、オギーになにが起きたかを読者が知ることはありません。いわゆる一般的な続編は書かないつもりです。というのも、『ワンダー』を出版したあと、たくさんの子どもたちがオギーやサマーやジャックになりきり、その人物の語る章を書いてくれたのです。ヴィアやジャスティンやミランダの物語も読ませてもらいました。エイモスやマイルズやヘンリーの語る章も。さらには、オギーの愛犬デイジーが語る、とても感動的な物語までありました。
そのなかでも、わたしがもっとも心を打たれたのはオギーについての物語でした。オギーは大きくなったら宇宙飛行士になるという子もいれば、先生になる、獣医になる、という子もいます。それをさしおいて作者が、さまざまな選択肢をつぶしてしまう続編を書くべきでしょうか? オギーには無限の可能性に満ちた明るくすばらしい未来があり、どの可能性も同じように尊いということしか、わたしには言えません。わたしが『ワンダー』をハッピーエンドにしたからといって、その後のオギーに幸せな将来が保証されているわけではないと、みなさん気づかれているはずです。大きくなるにつれ、オギーは必ず、ふつうの子どもよりも多くの挑戦をするにちがいありません。でも、きっとオギーは、なんであろうと人生に立ちはだかるものを打ち負かし、やってくる試練に立ちむかい、じろじろ見られれば負けずににらみ返すことでしょう(笑い飛ばすかもしれませんね)。オギーには楽しいときも苦しいときもずっと、すばらしい家族がいっしょにいるのです。だからこそ、通りすがりの人の心ない言葉や友だちが選んだ行いに傷つけられても、へこたれないのかもしれません。それに友だちも、ここぞというときにはオギーのために立ちあがってくれることでしょう。そして結局、『ワンダー』を読まれたみなさんは、『ワンダー』が、オギーになにが起きたのかについての本ではないのだと気づくのです。あの本は、オギーによって世界になにが起きたのかについての本なのだ、と。
そこで、ここからこの本の話、つまり『もうひとつのワンダー』について、説明をさせてください。本書には、三つの物語が入っています。それぞれ、ジュリアン、クリストファー、シャーロットが語る物語で、みんなオギーの存在をきっかけに、なにかしら変化をとげます。それは、ちょっとした変化であったり、そうでなかったりします。
『ワンダー』関連の短編を出してみてはどうかという話が出たとき、わたしはすぐ飛びつきました。一番の理由はジュリアンのためです。ジュリアンは、読者にとても嫌われていました。「冷静を保ち、ジュリアンになるな」というスローガンまでネット上に現れたほどです。なぜジュリアンがそこまで嫌われるのかは、とてもよくわかります。ジュリアンは意地悪です。じろじろ見たり、いやなあだ名をつけたり、ジャックを無視するように同じ学年の子たちを言いくるめたり、まさにいじめっ子。なぜ、こんなにひどいことばかりするのでしょう?
ジュリアンにはジュリアンが語るべき物語があります。ただ、いじめについて語るジュリアンの物語は、『ワンダー』に入れるべきものではありませんでした。そもそも、自分をいじめる相手の気持ちを理解して思いやるなんて、いじめに苦しむ子がすることではありません。けれども、ジュリアンを主人公にした短編で、その人物像をじっくり掘りさげてみようと思いつきました。ジュリアンに罪はなかったなどというのではありません。これは、ジュリアンをもっと理解するためです。ジュリアンは、たしかにひどいことをしましたが、だからといって必ずしも「悪い子」だということではないのです。あやまちから人を判断することはできません。本当にむずかしいのは、おかしたあやまちを受け入れることなのです。
ふたつ目の短編は、クリストファーというオギーの幼なじみの物語です。まだ小さかったオギーがつらい目や悲しい目にあったとき、クリストファーはずっとそばにいました。そして今、ずっと大きくなったクリストファーは、オギーと友だちのままでいることのむずかしさに迷い悩みます。じろじろ見られることや、新しい仲間の気まずい反応。むずかしい場面になると、友だちを見捨てそうにもなります。それは、特別困難な事情を抱える相手でない場合でも起きることで、クリストファーの真心は、オギーとは別の友だちとのあいだでも試されることになります。
三つ目の短編は、シャーロットの目から見た物語です。『ワンダー』では、シャーロットはずっと、やや距離をおきながらもオギーにやさしくしていました。会えば手をふってあいさつするし、オギーに意地悪な子たちの側にはけっしてつきませんでした。とてもよい子だということは、疑いようがありません。けれども、わざわざそれ以上のことをすることもありませんでした。この物語は、五年生のときのシャーロットの日々をじっくり見せてくれ、読者のみなさんは、その一年間に彼女にも、たくさんのことが起きていたのを知ることになります。どれもオギーの知らなかったことばかりです。ジュリアンやクリストファーと同じようにシャーロットも、特別な事情を抱えた子のようすに心動かされた、ふつうの子の日々を送っていたのです。この三つの話はどれも、友だちとの関係、信頼、思いやりについて語り、なかでも、親切とはなにかを深く問いかけてきます。友情はときにむずかしい場面もあります。けれども、わたしは子どもたちを信じています。子どもたちは他者を思いやり、愛し、助けあっていく能力を持っていると信じています。必ずや世の中を、よりよい方向へ導いていってくれることでしょう。そこでは、この世界の生きとし生けるものみんなが受け入れられ、尊重されているのです。弱者やまわりに適応できない人も。そして、オギーとわたしたちも。
(『もうひとつのワンダー』「はじめに──作者のことば」より)