ホームへ全世界で300万部突破の感動作ついに7月刊行!

●『Wonder(ワンダー)』を執筆するにあたり、何かきっかけはありましたか?
 数年前、息子たちとアイスクリームを買いに出かけた時のことです。上の子がミルクシェイクを買いに店内に入り、下の子とわたしは外のベンチで座って待っていました。当時下の子は3歳で、ベビーカーに乗せていました。ふと気づくと、となりに頭部の骨格に障害のある女の子が座っていました。女の子の友だち(姉妹だったのかもしれません)と、母親も一緒にいました。下の子は、その女の子を見上げた時、まさにみなさんが想像するような反応を見せました。おびえて、大声で泣き出したのです。わたしは急いでベビーカーごと遠ざけようとしました。息子のためというよりは、女の子を傷つけたくなかったからです。とっさに動いたものですから、そばにいた上の子が持っていたミルクシェイクをこぼしてしまい、なんというか、ひどい状況でした。ベビーカーを動かそうとするわたしを見て、女の子の母親は「それじゃあみんな、そろそろ行かなくちゃね」と優しく穏やかな声で言い、その場から立ち去りました。その言葉は、わたしの心にグサッと刺さりました。
 その日一日中、わたしは自分がとった行動について考えました。あの親子は、毎日、何度も、同じような場面に出くわすのでしょう。それこそ何度も何度も。彼女たちはいつも、どのように感じているのだろう? わたしは、子どもたちにどう教えれば、次に似たような状況になった時、より良い対応ができるのだろう? 「じろじろ見ちゃダメ」と教えるのははたして正しいのだろうか、あるいはそういう考え方自体、もっと根深いものではないだろうか? そうしたいくつもの考えが頭の中をめぐり、わたしは、息子たちに良い態度を示す機会を逸してしまったことを後悔したのです。わたしがあの時すべきだったのは、下の子を遠ざけることではなく、女の子と、女の子の母親に話しかけることだったのです。仮に下の子が泣いても、それはそれ。子どもは泣くものです。彼には、彼のために、怖がることなど何もないよと言ってやるべきだったのです。単純に、わたし自身、ああした状況で、取り乱す以外にどうすれば良いか知らなかったのです。
 偶然ですが、その日の夜、ナタリー・マーチャントの「Wonder」という曲がラジオで流れました。日中のアイスクリーム事件のことを考えていたわたしに、その曲はきっかけを与えてくれたのです。その夜からわたしは、「ワンダー」の執筆を始めました。


●オギーの病状に対して、どのようなリサーチを行いましたか?
 何週間か、遺伝学についてリサーチしました。特に子どもにおける頭蓋顔面の異常に関して。これには多くの症例があり、程度もさまざまでした。書籍では、オギーの症例に対して具体的になりすぎないようにしました。わたしの考えでは、オギーは唇と口蓋が裂け、他にも未知の症状が併発し複雑化した重度のトリーチャーコリンズ症候群を患っており、このことがオギーの特異な症例を医学的に謎の多いものにしています。


●ブラウン氏の言葉を引用するアイデアはどのようにして?
 わたしが13歳か14歳だったころ、格言や教訓集めに熱中していた時がありました。どうしてだかよくわかりませんが、なんとなく好きで、かっこいいと感じていたんだと思います。「幸運は勇者に味方する(※原文:Fortune favors the bold)」などはお気に入りです。また、高校時代、英語の先生でブラウン先生という素晴らしい方がいました。教訓めいたことはおっしゃいませんでしたが、私はブラウン先生に教えられました。本に出てくるブラウン氏は、その先生をモデルにしたキャラクターです。読んでくれていたらうれしいわ。


●なぜ、ジャスティンの章では大文字が使われず、適切な句読法が使われていないのですか?
 わたしは中高生時代、トロンボーンを演奏していました。特に低音パートを演奏していた時、譜面がアルファベットの小文字に似ていると思ったことを思い出したからです。今ではもうすっかり楽器はしませんが、譜面を読むことはできますし、今でも譜面がそのように見えるんです。おそらく、長年グラフィックデザイナーとしての経験があるからこのように感じるのかもしれません。ですがわたしにとって、活字やフォントは単に文章の内容を伝える機能をもつだけではなく、デザインそのものが意味を伝える手段でもあるのです。ジャスティンは音楽的に物事をとらえるミュージシャンですから、彼の思考を書く時に、視覚的に小文字を用いることはわたしにとって自然な発想だったのです。彼はもともとシャイで、あまりしゃべらないタイプの人ですが、内面ではとても多くのことを考えています。彼の頭のなかをめぐるモノローグには文節などの区切りはなく、いわば水の流れのような思考がなされているのです。


●なぜ、複数の異なる視点を用いたのですか? また、全編通してそのようにするつもりでいたのですか?
 書き始めた当初、複数人の視点で書くとは思っていませんでした。オギーの視点で一貫して書き終えるつもりでいました。ですが、しだいにヴィア自身と彼女の生き方に興味がわいてきたり、ランチタイムにオギーと一緒に席に座るサマーの勇気の裏に何があるのかや、ジャックの裏切りに関して知りたくりました。それを知るためには―—つまり、オギーの完全な物語を知るには、彼になりきることをいったんやめなければならなかったのです。オギーは賢い子です。多くのことを理解しています。しかし、彼が他者に及ぼしている影響に関しては完全には理解できていません。わたしはオギーを、本来であれば知らないようなことまで知っている早熟な子どもにはしたくありませんでした。そういうキャラクターはリアリティがなく、信じられません。わたしは、オギーにリアリティのある子どもであってほしいと思っていたのです。
 ですから、複数の視点でつづけることにしたのです。わたしの好きな本、ウィリアム・フォルカー著『As I Lay Dying』も同じ手法をとっています。この本は、わたしにとって特別な作品でした。もちろん、複数の視点で書くことにはリスクもあります。まずもってわたしはウィリアム・フォルカー氏のようには書けませんし、物語の収拾がつかなくなり、書き手の手を離れてしまう可能性もあります。登場人物は物語を支配することが可能です。登場人物すべてを統一された物語世界の部分として描くのは困難なことなのです。
 複数の視点で進めようと決意した時、3つのルールを作りました。1,全ての登場人物は、脇道にそれずに物語を進めなければならない。回想をはさむ時でも、プロットは各登場人物の視点で進行する。例えるならリレー競走ですね。各登場人物は「物語」というバトンを受け、次に引きつぐわけです。2,全ての登場人物は、オギーの物語を補強するためにある。つまり、各キャラクターは自身の物語を進められるが、必ずオギーの物語と交差する形でなければならない。3,全ての登場人物は、オギーを知ることによって成長または変化する。オギーを知ることで、彼らの物語は、彼ら自身の物語と同時に、オギーの物語を強化する。


●なぜジュリアンは個別の章を与えられなかったのですか?
 ジュリアンの大きな問題は、オギーを知ることで葛藤をかかえたわけでもなく、オギーによって変化がもたらされたり、つき動かされたりすることもなかったことです。結果として、彼はオギーの物語に与えるものがありませんでした。あまりに自己関与的にオギーに興味を持ち、あまりに他の子が自分に対してどう思うかに意識を集中していました。しかしジュリアンの物語は――比較的マイナーなキャラクターではあるけれども――ジャスティンの物語に奥行きを持たせます。ジャスティンのヴィアへの恋は、本書の時間軸において、オギーの物語にとって非常に重要な瞬間で交差します。その際、ジャスティンはオギーによって変化し、彼の行動は、小さくではありますが、物語を押し進めるのです。ジュリアンは本書の中では大きく変化することがありません。その選択や行為が、オギーや周囲の友だちによって変化することはないのです。
 もちろん、少しの変化を起こさせることはできたでしょう。ジュリアンにもオギーによる変化をもたらすことができたかもしれませんし、オギーの物語に影響を与えられるだけのものを見つけることができたかもしれません。彼の章もこの本に加える事ができたかもしれません。しかし最終的にはわたしは、ジュリアンにそういった行動をとらせることにリアリティを感じられなかったのです。本書はキャラクターが主導する本です。そしてわたしにとってもっとも重要だったのは、登場人物と、彼らの意志と衝動に対して正直であろうということでした。ジュリアンの扱い方をシフトさせ実際にオギーに関わらせることは、もしかしたらうまくいくかもしれませんが、真実味をおびないように思えたのです。ですので、ジュリアンの視点による章をつくらず彼の性質に正直に向き合うことのほうが、彼がオギーに話したり感じたりすることを記すより意味を持つと考えたのです。しかし同時に、著者として、オギーと同様の頭蓋顔面異常を持つ読者に対して責任を感じています。母性本能と言ってもいいかもしれません。いかなる形であれ、わたしの執筆した内容で読者の気を害したくはありませんでした。ジュリアンの醜い感情には言葉もありませんし、正直なところ、いじめっ子を舞台にあげたくなかったのです。では何のために登場させたか? そうすることで、ジュリアンのオギーに対する嫌悪を説明することができるのか? ジュリアンの立場からの視点を紹介することができるのか? わたしは、彼に内在する卑劣な衝動を正当化したくありませんでした。正当化してはいけないと考えたのです。ジュリアンの行為と態度には理由も原因もあるのでしょうが、それは他の本で取り上げるべきことです。わたしは、ジュリアンがオギーの物語を乗っ取るのをよしとしなかったのです。この本は、ジュリアンがいかにしてそうした嫌な子になったかを記すものではありません。この本は、注目を浴びることをものともしない少年オギーについての本です。結果、ジュリアンの声は、この本のどこにも居場所はありませんでした。


●この本はいじめに対する強いメッセージを持っています。幼少期、ご自身がいじめを受けた経験はございますか?
 この本は確かに、いじめに対する強いメッセージを持っています。私自身がいじめを受けたかどうかについては、答えはノーです。いじめを受けていたことはありません。ですが、多くのことが思い出されますし、明らかに身体的にいじめを受けている場合以外にも、たくさんの種類のいじめがあることも知っています。集団内での孤立や、冷やかし、友人たちの無視などもあります。そうしたものは、わたしも経験があります。もちろん、オギーが受けていたものほどではありませんでしたが。ジュリアンのような存在も覚えがあります。彼らはいきがり、誰かをこきおろすことで自身の優越を感じていました。それは、集団内で最も下の序列の者を攻撃するという、いじめにおける一般的な手口です。ジュリアンにとって、オギーがその対象でした。食物連鎖のもっとも下にいる存在です。オギーでなかった場合、それはジャックだったでしょう。オギーでもジャックでもなかった時は、他の子であった可能性もあるのです。もしかしたら、オタクっぽいという理由でふたりのマックスだったかもしれません。あるいは、海の保全を熱心に考えるリードだったかもしれません。誰かがそうであらねばならなかったのです。ジュリアンのような子どもは、こきおろすことで自分の自尊心を満たせる対象を、常に必要としているのです。それは、未熟な子どもにとってとても根源的な感情です。サマーはそのスペクトルでは対極に位置しています。彼女は、感情面、精神面ともに大変成熟しています。


●身体的にどの登場人物がもっとも好きですか?
 その質問は、母親にどの子どもを一番好いているかと聞くことと同じでしょうね。みんな愛していますので、答えられません。


●どの登場人物に対して一番親近感を覚えますか? あるいは、誰が一番ご自身に似ていると思いますか?
 わたし自身はサマーに一番近いと答えたいのですが、それが真実とは言えないでしょうね。常に彼女のようになろうと努めてはいますが。一番近いということであれば、オギーの母のイザベルでしょうか。オギーの姉のヴィアは、15歳の頃のわたしにとても似ています。ヴィアとイザベルはとても似ていると思います。ただ、女の子として一番近いと思う登場人物、またはオギーのような子と同じ学校に通っていた際の自分に一番近い印象を覚えるのはシャーロットです。おそらく、多くの子がシャーロットには共感すると思います。彼女は充分に優しいのですが、具体的にその優しさを行動にうつすことは出来ません。ちょっと離れた先から手をふってオギーに挨拶はしても、となりに座ることはないでしょう。シャーロットはジャックを陰で手助けはしても、彼のとなりには並びません。彼女は良い子ですが、自身の良心に即して行動ができるほど勇敢ではないのです。こうした類の勇気は、しばしば年を重ねることによってしか身につかないものですし、人によっては一生身につかないことも往々にしてあります。彼女はこの本のメインテーマである、単に優しくあることと、一歩踏み込んで親切を選ぶことの違いを表す存在なのです。彼女は典型的な傍観者であり、物語の終わりではそのことに気がつきます。彼女の格言がそれを示しています。進級し、新学期を迎えた後は、彼女はきっと傍観者ではなく、当事者となっていることでしょう。


●『ワンダー』において、母親、父親が章を持っていないのはなぜでしょうか?
 両親の章は、物語を子ども主体のものから何か別のものへ、より暗く、シニカルな何かへ観点がずれてしまう恐れがあったため、意図的に作りませんでした。物語の終わりを、オギーが彼の人生に誇りを抱いていると告げるハッピーエンドでしめくくったのはわたしの選択ですが、われわれはオギーにとって人生が必ずしも容易でないことを知っていますし、それは物語内の大人たちも知っています。これは、この本を読む大人たちが、子どもよりもはるかに感傷的になる要因のひとつだと思っています。何を読者へ伝えるか、どこで物語を終えるかを決められるのは著者の特権です。イザベルとネートは語るべき自身の物語を持っていますが、わたしはそれをこの本に入れたくありませんでした。彼女たちは、物語に子どもたちの視点からでのみ登場し、子どもたちによって理想化されるのです。子どもたちは、彼らの両親が子どもたちに見せたいと思う側面だけを見ます。ネートはそうでもありませんが、イザベルの場合は顕著です。彼女は、子どもたちに見せる自分を厳重に制御しています。例えばオギーを初めて学校に登校させる時、自身の瞳の中にある恐れを、オギーに悟られたくないと思っていました。人がオギーを見て驚く時の表情や、聞きおよぶ物言いによって、悲しみ、怒る自分を息子に見せたくなかったのです。彼女は、オギーが強く、幸せになれる助けになる側面だけを息子に見せました。息子の将来のことで恐れを抱いている自分は、夫や親しい友人にしか見せません。そのため物語中のイザベルは、純粋に子どもたちの眼差しからのみ形成されています。もし、夕食後、お酒をいくらか呑んだ後の彼女と会えば、その印象は大きく違うことは想像できるでしょう。彼女はもっとイライラしていて、ぼやき、悲しみ、疲れていることでしょう。わたしは、わたしの母が人生で一番辛かった時期や、その際どんなことを考えていたか知りません。母は自身の感情を閉じこめ、わたしには見せないようにしていました。イザベルも同じことを子どもたちにしているのです。


●ワンダーの続編は?
 多くの子どもたちが同様の質問をしてくれて、とてもうれしく思っています。子どもたちは、オギーが進級し、高校に行き、または成人してから何ができるのか、素晴らしい提案をしてくれます。間違いなく、出版社様も続編を喜んでくれると信じています(笑)。ですが、わたしは、こういった本は続編を必要としないと考えています。しばしばそうした本もあると思いますが。(編集部註:2015年5月時点で、米国ではジュリアン、クリストファー、そしてシャーロットを主人公にした短編がそれぞれKindle版のみで刊行されている。)わたしは、オギーがハッピーエンドで物語を終える結末を選びました。そして彼が健やかに、幸せに今後を生きていけることを祈っています。彼の母親のように、世界がオギーに対して親切であり、彼を好いてくれるように信じなければなりません。人々がオギーに心をひらいてくれると信じなくてはなりません。この本を読むことで、人々がその可能性を考えると思います。わたしは、オギーの物語を伝えることで、読者が、自分がこの物語中の誰であり、誰になることを選択できるのかを考えて欲しいのです。わたしの願いは、読者全員が、親切であることを選択してくれることなのです。


●物語の中でお気に入りの箇所は?
 ふーむ、難しい質問ですね。いくつかお気に入りの場面はありますが、一番は森の中の場面でしょう。いじめを受けたあと、オギーとジャックは、エイモスとマイルズ、ヘンリーとともにトウモロコシ畑を走りぬけ、休みます。その時、ジャックはみんなが彼らを助けてくれたことを感謝し、ハイタッチをします。オギーも同様にお礼を言い、ハイタッチしようと手を上げますね。それまでずっと、そばにも寄ってこなかった相手に対して、もしかしたらハイタッチを返してくれないかもしれないのにも関わらず、です。この時オギーの見せた、ハイタッチのために手を上げる勇気が、わたしにはこれ以上ないほどの勇敢な行為に感じられたのです。そして男の子たちがそれに答えた時――オギーに対して初めて本物の優しさと共感をしめした時、なんというか、感動しました。オギーが泣くと、みんなで彼をなぐさめたのです。


●読み終えた子どもたちに何を感じとって欲しいですか?
 わたしは子どもたちに、自分の行動は周囲のみんなも見ている・気づいているということを知っておいてほしいと思います。あからさまなものでなくても、ひどいことをすれば、誰かが苦しんでいます。親切にすれば、誰かが助かります。親切にするか、ひどいことをするのか、どちらを選ぶかは、子どもたち次第なのです。この世において、どちらであるかを選択しなければなりません。そしてその選択をするのは、友だちでも親でもなく、自分なのだということを知っておいてほしいと思います。


●読み終えた親御さんたちにはどんなことを期待しますか?
 ご両親たちは、こうしたことをふまえて、もっと子どもたちに関わって欲しいと思います。学校でのいじめは避けられないもので、子どもたちには親の介入無しに自分で解決してほしいと期待している大人たちと、話したことがあります。ある父親がわたしにこう言いました。「まあ息子はわたしの言うことなんてもう聞く耳持たないし、わたしも彼にああしろこうしろと言うような、無駄に時間をかけることをやめたんです」。わたしに言わせれば、我が子がもう聞きたくないとする素振りを見せている時がもっともあなたを必要としている時なのです。わたしが思うに、親はみな本心では、いじめられているよその子を見て、自分の子じゃなくてよかった、と胸をなでおろしているのです。しかし、親はそうしたものの考えをやめなければなりません。親は、それが難しいことであるがゆえに、わが子に対して、優しく、善い行いをしなければならないと言って聞かせなければならないのです。


●本書がベストセラーになると思いましたか?
 思いもよらなかったわ! でも、多くの人が感想をくれてうれしいです。みんなが、これがただの「顔に障害がある子どものお話」であるとは考えず、思いやりへの賛美、他者を思いやることが何をもたらすかを描いた物語と感じてくれていることがとてもうれしいです。おそらくこの点が、人々をつき動かしているのだと思います。わたしたちは、善いことがなされているのを見るとうれしくなります。自分も、より尊いことをしようとする気にさせてくれます。これは何も、偉大な行いではなく、小さな親切なのです。


●作家を目指している人にアドバイスは?
 十代の頃に書きとめてあった言葉につきます。それは『ミケランジェロの生涯 苦悩と歓喜』(※原文The Agony and the Ecstasy)にもある言葉で、「最良の見本は自然である。あきらめることなく、描き続けよ」。「描く」を「書く」に置きかえて、それがアドバイスです。ただ書くこと。書く絶好のタイミングが来るのを、待っていてはいけません。だいたい、そんなものは存在しないから。


●幼いころ読んで好きだった本はなんですか?
 記憶にある最初に好きになった本は7歳の頃に読んだ『ギリシャ神話』ですね。次にエディス・ハミルトンが書いた『ギリシャ神話』、W.H.D. Rouseの『イーリアス』です。それからは『若草物語』やジュディ・ブルームなどの一般的なティーン向けの本を読みました。十代前半には超長編小説をむさぼるように読んでいました。その手の本は70年代にとても人気だったの。『ソーン・バーズ』とかね。ある夏には『指輪物語』とかSFシリーズとかに夢中になりました。あと、ヴィアみたいに15歳の時に『戦争と平和』も読んだわ。


●最近はどのような本を読みますか?
 最近は、残念ながら十代の頃ほどには本を読めていませんが、コーマック・マッカーシーやロバート・オルムステッドをよく読んでいます。ケイト・オブライエンの『The Land of Spices』はお気に入りですね。アイリッシュ文学がもう素晴らしくって、ジェームス・ジョイス、コラム・マッカン、マーゴット・リブシーの『Eva Moves the Furniture』も大好きです。『ブライズヘッド再訪』も外せないわね。孤島に持っていく3冊を選べって言われたら、『星の王子さま』『伝奇集』『Cosmicomics』を選ぶわ。


●執筆はどのように進められているのですか?
 わたしは別にフルタイムの仕事を持っています。(※編集部註:本書を執筆していた当時、作者はアメリカの出版社Workman社の児童書出版部長だった。いまはフルタイムではない編集者として働いている)夫もいて、二人の子どもがいます。なので、執筆のためだけの自由な時間を待つぜいたくはありません。時間を大事にしなければならないのです。ワンダー執筆時の習慣は、おおむね次ような感じでした――仕事から帰り、家族と夕食をとり、子どもの宿題の手伝いをして、TVを見て、大体10時ごろに眠りにつき、深夜に目覚め、みなが寝静まっているなか2~3時間ほど執筆をする。難しく聞こえるかもしれませんが、実際はそれほど難しくはありませんでした。わたしは物語にのめりこんでいて、彼らのところへ戻るのが待ち遠しかったのです。